最初にことわっておきますが、長い文章になっています
内容も重いかもしれないので、読みたくない方もいらっしゃると思います
冒頭でそう感じましたら、そっと閉じて下さい
読んでみようと思ってもらえるなら、最後までお付き合いいただけると幸いです
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12月4日に伯母が亡くなりました
そのことでしばらく考え込む日が多かったのですが、少し落ち着きを取り戻し、自分の心の内を、伯母のことを書き残したいという想いから綴っています
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伯母は文字通り私の母の姉です
いつも「おばちゃん」と呼んでいたので、この後はおばちゃんと記します
幼い頃から聴覚に障害を持っていたおばちゃん
8年ほど前から施設に入所し生活していました
今回その施設内で新型コロナウィルスに感染し、症状が悪化して入院、敗血症となり程なく亡くなりました
コロナに感染していた為、とても寂しいお別れとなりました
おばちゃんの人生は豊かだったのだろうか?
入院を知った日からずっと考え続けています
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おばちゃんは聴覚障害があったと書きましたが、それは生まれつきのことではありませんでした
乳児の頃、母親(私の祖母)の体調が思わしくなく、自分のお乳を与えられなかった為に代わりにヤギの乳を与えていたそうです
おばちゃんはその乳を吐いてしまいました
運悪くその吐いた乳が耳に入って固まり、炎症を起こしたことが原因で聴覚障害になったそうです
自宅に車がない時代でした
なんとか近所で車を出してくれる人を探して病院に連れて行ってもらえたのですが、手遅れだったのです
今の時代だったら障害になることもなかったように思います
それでも両耳ともが全く聴こえなくなった訳ではないので、例えば聾学校に通ったり、手話を覚えたりすれば自立できる手立てはありました
ただその為には、当時では電車で片道二時間ほどかかる大学病院の方に通わなければなりませんでした
毎日通うのは流石に無理です
そんな人たちの為に大学病院近くで泊まり込む場所があって、当初は親子共々泊まり込んで通院していたそうです
しかしそれは長くは続きませんでした
金銭的なことや、妹である母がまだ幼かったこともあって家を空けることにも限界があり、両親は病院通いをやめました
大学病院からは最低でも五年は頑張って通わないと自立できなくなると言われたそうですが、結局、自分達で一生面倒を見ればいいと判断したのです
仕方がなかったとは言え、この時の判断がその後の私達家族に多大な影響を与えていきます
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家族だから、自分達で面倒を見るというのは当たり前だと思われるかもしれませんが、言うは易しです
障害を持つ人がいるような施設に通わせたりしていればまだ良かったように思うのですが、両親(祖父母)は自責の念なのか、世間体なのか、おばちゃんを障害者として認めないことを自分達だけでなく、周囲にも暗に求めました
そうやって他人や行政に助けを求めることをしないまま、おばちゃんは大人になったのです
耳はまともに聴こえず、手話も覚えず、話す言葉も両親や私の母は何とか理解できる程度
家の中だけで、自分達だけで面倒を見るという両親(祖父母)の判断は間違いだったのではないかと、私は今でも思います
障害がある=問題がある、迷惑な存在
そう考えているからではありません
親(祖父母)が先に亡くなる可能性が高いのです
実際に先に亡くなっています
そうなるとその役割を担うのはおばちゃんの実の妹である私の母や、おばちゃんがいることを受け入れ養子として我が家に婿入りしてくれた父になります
事実、私の両親は祖父母が亡くなってからだけでなく、亡くなる前からもずっと面倒を見続けていましたから、予想していたこととはいえ気苦労が絶えませんでした
また、子供である私達きょうだいも例外ではなく、負荷の大小はあれど、ほったらかしにはできませんでした
何よりおばちゃん本人の、自分の力や意思で生きていけるはずだったかもしれない道筋を閉ざされたこと
それが本当におばちゃんの為だったのかと
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子供の頃はまだ良いのです
コミュニケーションがとれないこともさほど問題になりません
聞こえなくても話せなくても他は正常です
文字は読めるし、実際中学校までは普通学級に通っていましたので勉強だってできます
家事だってできます
しかし年齢を重ねれば自我が出てきます
知恵もついていきます
それなのに社会とは距離を置くから、社会性や道理が身につかない
それが一番の問題だったのです
段々と、家族のみならず近所の方に迷惑をかけるような行動をとるようになりました
実際、警察にお世話になるようなこともありました
ご近所の方は事情を知っているので穏便に済ませてくれたりはしましたが、家族からすれば謝罪しなければならないことばかりでした
家の中でも、悪さをして怒られるのを避ける為に、家族が寝静まった後に起きて色々やるようになり、またそれをさせないようにと私の母はロクに寝ずに見張り続ける日々を過ごさなければなりませんでした
前述した経緯を、ある程度の年齢まで知らされなかった私達きょうだいも、おばちゃんの行動に理解を示せず、何度も声を張り上げ怒りをぶつけました
でも言ったところで聴こえていないかのようにどこ吹く風です
その態度が私達をより一層苛立たせました
おばちゃんなんて居なくなればいいのに
何度も、心の中だけでなく実際母や父の前で口にしました
器の小さい人間なんです
ただそんな酷い言葉を両親に諌められたことはありませんでした
皆んながそう思っていたのです
迷惑な存在でしかない
私達の立場から見ればそうなのです
一緒に住んでいるから、家族だからこそ切り離せず、振り回され、怒りが湧き、消せない
家族なんだから、障害があるのだから許しなさい
そう世間から非難されるかもしれないけど、現実は厳しいです
私はそんな自分の負の側面を、正当化するつもりはありませんが、否定もできません
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ただ、おばちゃんの立場に立ってみれば、おばちゃんはおばちゃんでそうするしかなかったのも事実でした
親から外との関わりを閉ざされ家にいるしかなく
できることといえば寝るか食べるか遊ぶか
他の人にとって迷惑かどうかを、判断したり選択する基準や環境がなかったのですから
そう考えて許せるようになったのは、おばちゃんが施設に入ってからのことでした
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大きな病気をして入院した際、退院と同時にそのまま施設に入れようと私は提案しました
私の両親、特に母がかなり疲弊していたからです
両親にも施設に入ってもらいたいという考えは頭にあったようです
それでも母は、見捨てるようだからと躊躇していました
どんなに迷惑をかけられても、そこは実の妹である母からすればそう感じて当然です
それでも私は、両親の疲弊する姿や会う度におばちゃんの起こした出来事の不満を言う姿を見ることの方が辛かったのです
だから強く、何度も説得しました
そしてようやく距離を置く生活となったのです
その判断が正しかったかどうか正直わかりません
しかし、それからのおばちゃんは
施設は楽しい
ご飯も美味しい
と、母が訪ねる度に話していたそうです
そして気持ちにゆとりができた母は私に、おばちゃんの話を沢山してくれるようになりました
子供の頃に姉妹で遊んだ話、おばちゃんの得意なこと、障害になった経緯、なぜおばちゃんが理解できない行動とってしまうようになったのか、なぜ家族が色んなことを我慢して自分たちの生活を犠牲にしなけれはならなかったのか、を
私自身おばちゃんの全てを否定していた訳ではありません
良い面も当然ありました
家族としての情もあります
それでも迷惑なことをされたり、話を聞かされると、結局負の感情で上書きされてしまい、許すことができませんでした
それは両親も同じだったと思いますが、距離がとれたことで、両親からは負の感情が消え、そのことで私自身からも負の感情が消えたのです
母とおばちゃんは、ようやく、ごく普通の姉妹に戻れたのではないかと思えました
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入院を知ってからずっとそんなことを思い返していました
その中でふと
そういえば私達は
家族内で感じるような負の感情を
表では出すことがなかったな
と気づきました
むしろ外の人には寛容だった気がするのです
なぜだろう。。
世の中には自分とは考え方も行動も異なる人は沢山いて、常識から程遠いと感じる人も一定数います
そんな人を目にしたり、何かされたりしたら怒りが湧くのは自然なことです
でも何となく私達家族は
そんな人もいる
という現実を、幼い頃からおばちゃんという存在によって体感していて、外では許容できるだけの耐性が自然とできていたのかもしれない
そう感じたのです
私がおばちゃんから得たものは、お菓子作りや折り紙の折り方、あやとりをする楽しさだけでなくて、寛容な心や受容する心、他にも目に見えない人として大切な何かだったのかもしれません
何を得たのか
まだまだ見つけられていないことが沢山あって、それをこれから見つけながら、実感しながら生きて行くことが、おばちゃんがこの世に生まれて、私達の家族だった意味になるのではないか
そう思えて、だからこそ、お別れの時に最後に伝えた言葉は
「ありがとう」
それ以外にありませんでした
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色々思い出して、大変な時間の方が多かったのは事実です
それでもやっぱり家族だから、悲しくて、涙を抑えられません
寂しい最期となってしまったおばちゃんの人生は豊かだったのか
私は
もっと違う豊かな人生があったのではないか
幸せでなかったのではないか
と、正直思ってしまいます
けれども、その違う人生が幸せだったとも言い切れません
おばちゃんの人生が豊かだったのか
それはきっと、おばちゃんにしか決められないことなんだと思います
本当はその答えを聞きたかったです
けれどもそれは叶いませんでした
母も悔しい思いをしています
コロナに感染しなければ
コロナ禍でなければ
もっと違うお別れができたはずでした
それが残念でなりません
コロナ禍当初、
コロナ感染者とは顔を合わせられないままお別れしなければならない
火葬場で骨と灰にになるのを待つしかできない
と言われていましたので、今回もそれを覚悟していました
しかし幸いにも、もう危ないという時に、日曜にも関わらず病院側がオンライン面会を準備してくださり、両親は意識のあるうちに会えたそうです
画面越しでしか声をかけられなかったのですが、母がおばちゃんの名前を呼ぶと、それまで苦しんでいたおばちゃんはゆっくり目を開いたそうです
耳は聴こえないはずだけど、きっと母の声は届いたのだと思います
また、病院から火葬場に直行することは変わっていないのですが、それでも病院の救急出口で身内は納棺に立ち合わせてもらえました
透明な納体袋に密封されていて、直接触れることはできませんでしたが、顔を見て棺に花を供えてお別れができました
穏やかな顔で安堵しました
コロナ禍で大変な中、たまたま忙しくなかっただけなのかもしれませんが、病院の救急の医師や看護師の方も沢山、一緒に最後まで見送ってくださいました
火葬場では、コロナ感染者はその日の一番最後に回されます
人数制限はありますが、それでも骨上げまでさせてもらえました
来世では耳が聴こえるようにと願いながら、両耳の骨を丁寧に骨壷に納めました
寂しいお別れだと書きましたが、コロナ禍で様々な制限がある中でも、病院や葬儀社、火葬場の方には心ある対応をしていただき、感謝しかありません
悪天候で、雨がひどく降っていた日でした
それでも火葬場に向かう車中、時折り雲の切れ間から青空が、そして虹が見えました
おばちゃんは、あの虹の橋を渡るのかなぁ
なんて、子供みたいなことを思ったのです
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おばちゃんの名前は「豊子」といいます
両親が、豊かな人生であって欲しいと願って付けた名前のはずです
次の世では
今世で叶わなかった五体満足で
違う人生を味わってみて欲しい
ただただ、今はそれを祈っています
ありがとう
おばちゃん
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今回この話を投稿してよいものか悩みました
身内の恥を晒しているかもしれない
何よりおばちゃんの尊厳を傷付ける内容かもしれないと
でも、この世に生を受けながらも、社会とほとんど関わることなく、まるで存在していなかったかのようなおばちゃんの人生を、私はなかったことにはできませんでした
そんな想いは私の自己満足なのかもしれないし、おばちゃんへの懺悔なのかもしれませんが、感謝を込めて、そして自分への戒めとして、投稿させていただきました
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最後まで長文にお付き合いくださりありがとうございました