今日感じたコトを気ままに

日々感じた事を、気まぐれに書いていきます。

星降る夜に

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《星降る夜に》

というドラマを現在観ています

最終話を目前にして、ドラマに関連した記事を見つけました

『星降る夜に』素直に泣くことの難しさを痛感 最終話で深夜の“復讐”の意味は描かれるのか(リアルサウンド) - Yahoo!ニュース

自分自身にも重なる想いがあります

 

"配偶者を突然亡くした"

という経験が根本なんだけど、そのことが、というより、その後のことの方がリアルに響きます

素直に泣くことの難しさ

本当にそうだった

責める対象もなく、むしろ自分自身を責めるばかりだった毎日

泣けない訳ではない

それこそ毎日、何をしていても、色々思い出したり後悔しては泣いていたから

でも本当の意味で泣いていなかったんだ

そのことに気づいたのは、グリーフケアに出会ったことがきっかけでした

それまでも友人や家族が、心配して食事に誘ってくれたりして寄り添ってくれてはいたのだけど、話せば話すほど辛くなってしまう

そして身近な人の前で泣くのは必死に堪えてしまう

多分、無意識だったのでしょう

泣き叫べば相手を心配させ、困惑させてしまう

弱音を吐く姿を見られたくない

辛いと言っても、助けてと言っても友人も家族もずっと側にいて支えてくれる訳じゃない

いや、辛いと言えばずっと支えてくれるかもしれないけど、そんな迷惑はかけたくない

混乱しながらも、そんな周りの反応だけは何故だか冷静に考えていた気がします

辛い時に『大丈夫』と言って抱き締めくれた、私にとっての唯一の人が亡くなってしまい、拠り所がなくなってしまいました

彼でなければならなかったのです

周囲にありのまま弱音を吐けず、泣くこともできずに胸が苦しくなる一方でした

そんな日々が繰り返されることが苦痛で、家族や友人に会うことを控えるようになりました

その当時、私の身近には配偶者を亡くした経験がある人はいなくて、だから誰にもこの苦しみが理解できるはずがないとも思っていました

相手を非難している訳ではありません

それは仕方のないことです

かける言葉も見つからないのです

私がその友人達の立場だったとしたら同じだったはずです

どこまで踏み込んでいいのか、触れたらいけないのかわかりません

そもそも苦しんでいる本人にすら、踏み込んで欲しいのか、触れられたくないのかわからなくなっているのですから

何より、それまで何事も自分のことは自分で決めて、結果の良し悪しに関わらず自分の行動には責任を持って生きて来たという自負のようなものがあったからか、初めて自分では乗り越えられないと感じる出来事に遭遇し、混乱していました

それでも、それだからかもしれませんが、ひとりで苦しみから逃れようとしていたのです

なかなか糸口が見つからず、もがき続けました

そんな中で一冊の本に出会い、グリーフケアの存在を知りました

県内にも携わっている人がいることがわかり、藁にもすがる思いで電話しました

どこかの施設で話を聞かれるのか、と考えていたら、その方の自宅に招かれて、私ひとりに対してケアする方は2名のみの小規模な集まりでした

本来、知らない人の自宅に行くのは警戒するものですが、そういう環境でなければならない理由があります(後述します)

もちろん、苦しんでいる人につけこんだ商売や、変な宗教や集まりに勧誘する人もいるので警戒はして欲しいです

私が頼った先は、ボランティアできちんと活動しているところで、ケアにあたる人も専門の勉強をしている方だったから、お願いしてみようと思えました

参加する前や、ケアを受けている時、参加した後も、傷ついている人をそれ以上傷つかないようにと、言葉ひとつとっても細心の注意をはらった丁寧な対応でした

グリーフケアは基本的に本人に話をしてもらうスタイルです

無理に話させる訳ではなく、その人が話せるようになるまでじっと待ちながらも、少しずつでも想いや悲しみ、苦しみを吐き出せるように、フォローしてくれます

私自身、自分でも気づかなかった感情が次々と口から出てきて、子供みたいに号泣していました

それまでいかに色んな言葉や感情を押さえ込んできたのかと気づかされ、ケアを終えた後、何がどうとは説明できないのだけど、気持ちがスッキリしたことを今でも思い出します

 

泣けばいいとか、そんな単純なことではなくて、無理に閉じ込めている感情や言葉はちゃんと出して消化しないといけないんだと、それが出来ない限り、前どころか横にも後ろにも、どこにも動けないんだと実感しました

先に紹介した記事の中に

ゴールがないんです

と、妻を亡くした人の言葉がありましたが、本当にそうで

この先生きてく為のゴールがあって欲しい、道が見えて欲しい、そうずっと探して私自身も苦しんでいた気がします

後で冷静になって振り返れば、ゴールなんてない、なくてもいいんだってわかるんだけど、想定外のことが起きると、どこにも動けない、ってそんな風になってしまう

動けるようになったからって、前ばっかり見る訳ではないし、後ろに戻ったり横道に外れたりはします

だけど、どこにも動けない、動いていいのかもわからない

そんな状態なら、色々吐き出して、一旦受け入れて、諦めて、少なくとも自分が今どこに居るのかだけでもわかればいいのかなって思います

 

乗り越えるって簡単なことではないです

というか、今でも私自身は乗り越えられたとは思っていません

きっと一生乗り越えられない出来事なんです

乗り越えることは出来ない、といい意味で諦められたから苦しくなくなったのかもしれません

乗り切ったかな?って気はしますが。。

あの時以上に辛いことはないと思うから、この先も色々あっても乗り切れる気がしているんです(笑)

 

グリーフケアについて〉

個人宅で小規模である理由について少し補足します

記事の中にも似たようなことが書かれていますが、感情を露わにすることって、大人になればなるほど難しいですよね

実際私はそうでした

個人宅であれば、どこかの施設やお店に比べて人目を憚らず泣いても気になりません

参加者が沢山いる場合、それもまた周りの反応が気になり当たり障りのない話ししかできず消化不良になったり、他の参加者と自分の感覚や感情の違いが気になって逆に落ち込んだり傷ついたりして、快復に時間がかかるという背景があるようです

私がお世話になったところは小規模スタイルでしたが、全てのグリーフケアがそのスタイルではないはずですし、同じ経験をした人の話を沢山聞いた方がいい場合もあると思うので、その人に合った場所が選べたらいいなと思っています

 

ここからは個人的な感想

知り合い相手だと雑談ならいいのですが、心の機微に触れるような話ではお互いどうしても客観的に見られなくなりますし、お互いの反応を気にしてしまいます

結果的に当たり障りのない話し合いになってしまいました

赤の他人ならお互い先入観がないことで、色んな感情を曝け出し、泣き喚いても、恥ずかしいと思わずに済んで、相手がどんな反応をするかも気にせず、本音を話しやすかったです

私はグリーフケアをしてくれた人が赤の他人だったから気持ちを整理できたように思っています

 

もちろん、家族や友人の支えがあって今の私があるのは間違いありません

ただ、それだけでは乗り切れなかったことも事実でした

ひとりで生きる覚悟は必要なんだろうけど、やっぱり人はひとりでは生きてはいけない

誰かが何らかの形で誰かを支えてくれています

家族には家族の、友人には友人の、他人には他人の、それぞれにしかできない支え方があるんだと思います

どこかひとつだけに偏ってしまうと、その相手に負担がかかってしまうし、私自身にも当てはまりますが、失くした時にはさらに苦しくなります

 

寄り添い方も様々

ハグでも言葉でも行動でも、ただ側にいるだけでもいいのかもしれないし、ただ話を聞くだけでもいいのかもしれない

相手に、自分には寄り添ってくれる人がいるって伝わるかどうかが肝心で、寄り添っているフリは相手を絶望させてしまうこともあると、心に留めておく必要があるかもしれません

支える人は無理なく、支えてもらう人は偏らず、寄りかかられ過ぎないように、寄りかかり過ぎないように

それが寄り添うってことなのかな

そんな気持ちを忘れず付き合っていくのが一番かもしれないですね

 

 

夫が亡くなって間もなく丸7年になります

グリーフケアでの経験は、私のその後の生きる指針となっています

これからも誰かの支えであれるように、ちょっとずつ進んでいきます

 

今回紹介したドラマは観る人それぞれに色んな想いを改めて感じさせてくれるものになっていて、フィクションだけど、フィクションだからかな?どちらにしても心に残り、響く素敵な作品だと思います

結末が楽しみ^_^