今日感じたコトを気ままに

日々感じた事を、気まぐれに書いていきます。

もう十年なのか、まだ十年なのか

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三月十一日。東日本大震災から今年で十年です。
 もう十年 なのか
 まだ十年 なのか
人によって感じ方は様々だと思います。
東日本大震災では幸いにも自身や親類縁者にも
被害はありませんでしたが、その当時の映像を
見ても、被害を目の当たりにした人達の絶望を
想像してみても、平静でいる事はできません。

三月は桜の開花も始まり春へと向かう心弾む大
好きな季節でしたが、今は東日本大震災の衝撃
も含め、主人の命日も迎える私にとっては心穏
やかではいられない季節に変わりました。

主人が亡くなって五年になります。
 まだ五年か と思う日もあれば
 もう五年か と感じる日もあります
「もう」であっても「まだ」であっても、起点
になる日があるからで、忘れる事ができない点
ではどちらも同じなのかもしれません。でも他
の人に「もう五年か〜」と言われると少し反発
して「まだ五年だよ」って心の中でつぶやいて
しまいます。
きっとどこかにその人にしかわからない基準が
あるのでしょう。

昨日まで存在した大切なものが今日はもう存在
しない。
そんな突然の出来事に遭遇すると、思考は止ま
り現実感がなくなります。
それでも現実は容赦なくやってきます。段々と
自分以外は何も変わらない日常を過ごしている
のではないかと思い始め、普通でいられない自
分を責めてしまいます。
それまでの自分の人生や積み上げてきたものが
無意味に感じられ、掛けられる励ましの言葉も
慰めにならず、追い詰められる時すらあります。

絶望や悲しみ、苦しみの中におかれた時、自分
の感情を言葉にあらわす事は容易ではありませ
ん。もがき、誰かにわかってもらいたいと何と
か言葉を振り絞ってはみるけれど、わかっても
らえない。それがさらなる苦しみとなります。
自分自身にも表現できない想いが他の誰かに伝
わるはずもなく、けれども想いを閉じ込め続け
る事もできない。そんな日々が私にも続きまし
た。
「どこかに答えがあるのかもしれない」
そう求め続ける中で「これは」と思う人や歌、
本に出会いました。
それらとの出会いがなければ、いつまでも自身
の置かれた現実や感情に向き合わず、逃避し続
けていたのではないかと今でも思います。
今回はその中でも、東日本大震災に纏わる詩を
紹介します。

若松英輔著「詩集 見えない涙」より引用~

 -風の電話-
 海の見える高台に
 白い電話ボックスがあって
 そこに配線の切れた 黒電話がひとつ
 岩手県上閉伊郡大槌町にある 風の電話

 受話器をとり 耳にあてても
 何も聞こえない
 でも 訪れる人は皆
 亡き者たちにむかって
 話しかけようとする

 人が 何かを語るのは
 伝えたいことがあるからではなく
 伝えきれないことがあるからだ

 言葉とは 言葉たり得ないものの
 顕(あら)われなのである
 だからこそ
 語り得ないことで 満たされたときに
 人は 言葉との関係を
 もっとも 深める

 嘆き 呻き 涙して
 言葉を失ったところで ようやく
 死者たちの 語らざる声に気が付く

  どんなに 悲しんでもいいけど
  あまり 嘆かないで
  わたしの声が 聞こえなくなるから

  悲しんでもいいけど 顔をあげて
  あなたにはわたしが 見えないけど
  わたしには あなたの姿が見えるから

  悲しんでもいいけど ぜったいに
  ひとりだとは 思わないで
  いつもわたしは

  あなたのそばにいるから

 生者たちよ
 語ろうとする前に 亡き者たちの声を聴け
 祈りのとき
 彼方から訪れる 無音の響きを聴くように

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風の電話のエピソードは映画化もされており、
知っている人も多いかもしれません。
伝わらないと頭ではわかっていても、語らずに
はいられない。伝えたい事や伝えきれなかった
事がある。この詩も含め、詩集全体にそんな想
いが溢れています。

この詩集を本屋で手に取って最初の詩を読んだ
途端、どうにもあらわせなかった想いや言葉が
詰まっているように感じられ涙が堪えられなく
なりました。号泣してしまわないようにと即座
にレジに向かった事を思い出します。
著者の本業は薬草商らしいのですが、批評家、
随筆家でもあります。
詩集のあとがきによると、詩を本格的に読むよ
うになったのは厄年を超えてからとあります。
また、詩への向き合い方が一変した出来事とし
て、主に自身の配偶者との死別とその後に起き
東日本大震災があったと述べています。

この詩集を読んだ人にとって、一字一句全てが
同じ想いや言葉になる訳ではなく、むしろ背景
や事情がそれぞれに違う以上ひとつとして同じ
ものはないのだと思います。それでも私の心に
は響いたのです。

この詩集に悲しみや苦しみにも多くの表現があ
るように、私にも私だけにしかない想いがあっ
て、言葉にできない事でさえも亡き人への表現
のひとつなのかもしれない。そんな風に私には
感じられ、無理に何か言葉にしたり、人に知っ
て欲しいと考えずにすむようになり、少しずつ
色んな感情に向き合い、受け入れていくきっか
けの一つとなりました。

若松英輔さんの別著に「悲しみの秘儀」という
書籍があります。
こちらは「悲しみ」を表現した様々な詩を題材
に、若松さんが批評しているエッセイとなって
います。題材にした詩の書き手には有名な人も
いれば無名の人もいます。
最近何かの記事で知ったのですが、このエッセ
イは東日本大震災の被災地の、とある図書館の
貸し出し人気ナンバー1となっていました。
 - 何か答えを探しているのでしょうか?
 - 気持ちを確かめるためなのでしょうか?
まだまだ、と感じている人が多い事のあらわれ
なのかもしれません。

著者の若松さんは誰かの為に詩を書いたという
より、何か留めておけない想いを言葉にしただ
けなのだと思います。でもそれが私の心に響い
たように、きっと他の誰かの心にも明かりを灯
しています。
私自身こんな風に振り返っている時点で、やっ
ぱり「まだ」なのかもしれませんが、それでも
様々なものに出会い触れる事で、心穏やかな日
や、生きていて良かったんだな、幸せだな、と
感じる日も増えています。

被災地の人達にとっても、誰かや何らかの言葉
との出会いによって、心穏やかに過ごせる日が
一日でも多く、長く続いて行く事を心から祈っ
ています。そしていつか、自らの想いを言葉と
して紡ぐ事ができる、そんな日が訪れる事を願
わずにはいられません。
想いを言葉にあらわすのはとても難しいです。
それでもその言葉は決して無意味ではなく、誰
かの目に留まらないものであったとしても何か
が変わるきっかけになる事もあると私は信じて
います。そしてそんな私は、これからも言葉を
書き続けるでしょう。